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博多桃太郎の歴史、第2話

こんにちは、博多桃太郎Staffの西村(にしむら)です^^
 
前回に引き続き、博多桃太郎の歴史二回目です。
一回目の時に読んだ『博多桃太郎のあゆみ』と佐賀『銀天夜市』の小冊子ふたつ、どちらも素晴らしい内容で、読めばよむほど面白く、発見があり、驚嘆します。初心にかえる気持ちで今回もまた読み直しました。
そこで印象に残ったお話、二代目社長、西村徳蔵(大正十三年うまれ)が昭和三八年に世界一周旅行にいったときの感想があります。
以下引用、抜粋――
 
 
昭和三八年、ドルなら五〇〇ドル(約18万円)、日本円なら一万円まで持ち出し可という条件つきで、日本から海外への渡航自由化が決定した。規制緩和後は、急速に海外旅行人口も増えていった。
 昭和四二年、徳蔵は六〇日間の世界一周の旅に出た。きっかけは、同業者のグループで「世界の事を勉強しよう」という話しになったからだ。北は北海道から南は九州まで、総勢一五名の若手グループだった。
 香港を皮切りに、バンコク、イラン、エジプト、エカンジナビア、フランス、ドイツ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコなどを回り、最後はハワイから東京に戻った。
 海外旅行人口が増えてきたとはいえ、世界一周旅行は非常に稀な時代だ。
また、信子が旅行先のホテルに新聞を逐一送っていた。日本の情報に取り残されないようにするためだ。徳蔵にとって日本の新聞を見るのが楽しみのひとつであった。
 旅行に行ったのは、東京オリンピックが終わった二年後。当時、日本人で海外に行く人はまだ少なかったが、旅先で自分が日本人だと明かすと、「東京オリンピックの国だ」と言う外国人がほとんどだった。
「海外では日本=東京=オリンピックというイメージだった。オリンピックの宣伝効果の高さを改めて実感した。まるで全世界で『東京オリンピック』が認知されているようだった。ただ、日本そのもののことはまるで知らないようだった」(徳蔵)
 今でこそ日本は経済大国だが、当時は一ドル三六〇円の時代。海外では一万円の両替すらできなかった。日本円には何ら価値が無かったということだ。
「日本の値打ちは無いなとひしひしと感じた。それから考えれば、日本という国はたった三〇~四〇年のうちにすばらしく敬愛が伸長した。あの当時、世界を回れたことは人生の転機となった」(徳蔵)
 
 
徳蔵は当時佐賀の誰よりも早くパレードや、夜市のことを考え、自社だけでなく地域を発展する方法を考え、行動していましたが、それもこれも、この世界一周旅行の影響がおおいにあると思います。徳蔵の妻信子は「旅行でレディーファーストを学んでからは、私のことを”お前”や”あなた”ではなく、”信子さん”と呼んでくれるようになった」と、喜んでいました。
 
今でも時折、いろんな県から「あのとき世界一周旅行をしたんだ」と、語ってくださる方から電話がかかってきます。
 
また、この世界一周旅行で撮影した8ミリテープの上映会をし、『世界の玩具ショー』を開催したりしました。
多くのことをみて学び、実践することを大切にしていき、新しい商品展開や、発想をうみだしていってくれた先代には頭が上がりません。
 
今、博多駅はさまざまな国のお客様がいらっしゃいます。夜など多言語が飛び交いとても賑やかです。
わたしたち現在の博多桃太郎スタッフも、ご当地九州・山口をはじめとする日本の商品が世界各国に飛び立っていくことを、大変うれしくおもいます。
スクイーズ商品などとても人気です☆ミ ご意見ご要望ありましたら気軽にお声掛けください。
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